スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * - * - -

憲政記念館の「大正デモクラシー期の政治」を見てきました

久々のブログ更新ですー。

さっそくですが、
国会議事堂の近くにある憲政記念館にて行われている
「大正デモクラシー期の政治」特別展を見てきました。

憲政記念館について

「大正デモクラシー期の政治」特別展







「初めての本格的政党内閣」原敬内閣の成立から、関東大震災を経て、
第二次護憲運動と加藤高明内閣の誕生・普通選挙法公布、
そして金融恐慌までが関係資料によって紹介されてます。

原敬や西園寺公望、加藤高明といった、
教科書に載っているような人達が使っていたものが見れると
やっぱり感動するものです。
(原敬は暗殺された時に着ていたシャツが展示されてます。)

あとは、ご時世がらか、
関東大震災後の東京復興計画を立てた
帝都復興院総裁の後藤新平に
けっこうスポットライトがあたっていた印象です。
「復旧ではなく復興」という言葉、
後藤新平が関東大震災後の時に提言した言葉なのですね。


憲政記念館とその特別展、無料ですので、
興味のある方は是非足を運んでみてくださいね。
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:24 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:下関もろもろ

1月に行った旅行の記録ですがまだ続くんじゃよ!

山口県の下関と言えば、
高杉晋作好きにはいろいろ欠かせない場所なのですが
学校で習う日本史に限ってしまうと、
幕末の四国艦隊下関砲撃事件とか
日清戦争の講和条約である下関条約とかの方が
有名なのですよね……。

そして源平合戦の最後、壇ノ浦の戦いも下関なのでした。

そんなわけで有名どころをまずお伝えしようかと思います。





1185年に行われた壇ノ浦の戦いは、
源氏と平氏の最後の合戦になります。
その古戦場となった海域に臨むみもすそ川公園に、
源義経と平知盛の銅像などがあります。


……「なんで写真がぼやけてるんだよ!」と言いますと、
スケジュールの都合上、この公園に直に足を運ぶ予定が組めず、
バスの中から通り過ぎる時に撮影したものだったりします……。
……申し訳ありません……。

ちなみに左側が源義経、右側が平知盛(清盛の四男)、みたいです。


こちらは壇ノ浦の戦いで海に身を投げた
安徳天皇を祀る赤間神宮。


こっちはちゃんと足を運びました!

平清盛は平安時代の藤原氏同様、外戚政策をとり、
自分の娘(平徳子・建礼門院)を高倉天皇の中宮とし、
その間に生まれた子供を1180年、わずか3歳で天皇に即位させました。
この天皇が安徳天皇です。

1185年の壇ノ浦の戦いの時は8歳で、
祖母(平清盛の妻、平時子)に抱かれて入水したとされています。
『平家物語』などでも有名な場面ですよね。

あと、赤間神宮は怪談の『耳なし芳一』の舞台でもあります。

来年の大河ドラマは平清盛、ということですが、
1181年に清盛が亡くなった後も、
壇ノ浦の戦いまでやるような話を聞いた記憶があります。

とすると、少し前の大河『義経』に引き続き、
来年も観光地として盛り上がるかもしれませんね。






……幕末以前の下関の歴史、といえば、実は
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた巌流島もあるのですが、
こちらもスケジュールの都合で割愛したのでした……。


1日2日じゃ回りきれない歴史ある街なのです、下関。
(フォロー)
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 19:31 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:松陰先生銅像と誕生地など

萩市関連は今回でおしまいです。

これまではこちら。
教科書よりやさしい?史跡紹介:松陰神社&松下村塾
教科書よりやさしい?史跡紹介:萩市関連もろもろ
教科書よりやさしい?史跡紹介:萩市関連もろもろ

松陰神社からさらに山の方に向かった小高い場所に、
吉田松陰誕生地とお墓、そして銅像があります。

まずは銅像から。





松陰先生と、松陰先生の弟子でいっしょに黒船に乗り込もうとした
金子重輔が、ペリー艦隊を見つめている彫刻……だそうです。


お墓の画像は撮り忘れたので割愛……。
松陰先生のお墓は東京にもあったりするのですが、
萩市にあるのは死後百ヶ日忌に
遺髪を埋めて建てたものだそうです。
吉田家の家族だけでなく、
高杉晋作や久坂玄瑞のお墓も並んでいました。


そしてこちらが吉田松陰誕生地。


1922(大正11)年に整備されたもので、
その時に置かれた当時の間取りを示す敷石が
今も残っています。



誕生地にある石碑。
山県有朋が文字を書いています。



こちらは松陰先生誕生の際に使用されたとされる産湯の井戸。



これはちょっと違う場所から撮った写真ですが、
だいたいこんな感じで萩市が一望出来る良い場所にあります。


萩市は、……まあぶっちゃけ、行くのはちょっと不便なんですが、
江戸時代の典型的な城下町の姿を残した街並みといい、
松下村塾をはじめとする史跡の多さといい、
近世〜近代史に興味のある人は是非行ってみて欲しい町です。

……萩城に行けなかったのでまたいつかリベンジしなければ……!
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 19:30 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:萩市関連もろもろ

今日も空気読まずに……
ですがちょっと今回は大学受験で使えるかもしれないです。

これまではこちら。
教科書よりやさしい?史跡紹介:松陰神社&松下村塾
教科書よりやさしい?史跡紹介:萩市関連もろもろ


さて萩市ですが、実はこれまでに4人の内閣総理大臣を送り出しています。

まずは第1・5・7・10代内閣総理大臣を務めた伊藤博文。




伊藤博文の旧宅と別邸(東京に建てられたものを萩に移築したもの)が
松陰神社(松下村塾)の近所にあります。




伊藤博文も松下村塾の生徒で、
吉田松陰からは「なかなか周旋家になりそうな」と評されてます。
(周旋家=政治運動の才能を持つこと)
後々の伊藤の政治家としての活躍を見越したようなこの先見の明。
さすが松陰先生。

幕末の伊藤博文と言うと、
高杉晋作らとイギリス公使館を焼き打ちしたり、
井上馨らとイギリスに留学したり(長州ファイブという)、
四国艦隊下関砲撃事件を聞いて
留学から戻ってきて外国との講和に奔走したり、
その後幕府に屈服する保守派が政権を握った長州藩で、
高杉晋作とともにクーデター起こしたり、
(その結果藩論が再び倒幕になって第二次長州征伐につながる)
……まあいろいろやってます。

幕末と明治時代ってけっこう切り離して考える人が
けっこう多いと思うのですが、
本当はちゃんとつながってるのですよね。

伊藤の人生を追うと幕末〜明治時代がだいたい語れる、という意味で
興味深い人物ではあるのですが、明治時代の動きについては割愛します。
(ちなみに去年、慶応大法学部で
 伊藤の直話を元にした問題も出てたりしました。)






続いて、第3・9代内閣総理大臣を務めた山県有朋……の誕生の地。




山県有朋も松下村塾生で、
また幕末は奇兵隊の軍艦をつとめ、
先述の高杉晋作のクーデターや、
第二次長州征伐などでも活躍しております。

まーなんというか、陸軍・長州閥のドンってことで
世間一般的なイメージのよろしくない方なのですが、
生涯、松下村塾門下であることを誇りに思っていたようで
「吉田松陰先生誕生之地」の石碑には
「門下生 山県有朋」とだけ記しているなど、
松陰先生への敬慕は確かなものだったんじゃないかなーと
思いたいところです。






次は第11・13・15代内閣総理大臣を務めた桂太郎。




桂は1847年生まれ、
山県が1838年・伊藤が1841年生まれなので
ちょっと年代が下がります。
当然松下村塾生でもありませんが、
陸軍・長州閥、山県有朋の後継者的な人物です。

その旧宅が萩にあります。




第1次桂内閣が出来たのは1901年、20世紀の最初です。
初めて大臣となった人物が多く、当時は「二流内閣」とも呼ばれましたが、
1902年の日英同盟締結、1904〜05年の日露戦争を乗り越えた内閣です。
(その後、講和条約の内容に反対する日比谷焼打ち事件などで支持が落ち、
 1906年1月からは立憲政友会総裁の西園寺公望内閣(第1次)になりますが……)

ちなみに、桂は拓殖大学の創設にも関わっており、
上の銅像は拓殖大学から寄贈されたものだそうです。







桂太郎旧宅近辺は非常に風情の良い場所でしたので
普通に観光面でもおすすめです。






4人目はさらに時代が下って、第26代内閣総理大臣の田中義一。




萩市の堀内の素水園には銅像もあります。

その田中義一が大正時代後半から所有した別邸がこちら。




田中義一も陸軍で長州閥ですが
田中が内閣総理大臣になったのは
1924年の加藤高明内閣に始まる「憲政の常道」の真っ最中の1927年でして、
田中は立憲政友会の総裁として総理になっています。

受験生的には、伊藤博文の作った立憲政友会を率いて
長州出身の田中義一が総理になったと
つなげて覚えてしまうのは有効かもしれません。
まあ実際のつながりとか因果関係は
確認した限りでは無いのですが……山県系の人物ですし……
ただこのへんの内閣、立憲政友会か立憲民政党か、
全然覚えられなかった記憶が個人的にあるので……




この旧田中別邸、三角州で川に挟まれた萩市の、
つまり川沿いに位置してまして、とても良い風景が眺められる場所でした。

ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 20:49 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:萩市関連もろもろ

今回も受験シーズンですが空気読まずに(ry

前回の続きみたいな感じで。
教科書よりやさしい?史跡紹介:松陰神社&松下村塾

まずは長州藩の藩校明倫館……の跡にある明倫小学校。



この中にいくつか遺構が残っているそうですが、内部までは断念。
水練池、つまりプールがある藩校だったそうです!





続いて木戸孝允(桂小五郎)の旧宅。


1833年にこの家で生まれて、1852年に江戸に出るまで、
ここで過ごしたとのことです。
実際に誕生した部屋や幼少年時の習字、らくがきなんかも残ってます。



そしてそのご近所に高杉晋作誕生の地。


産湯に使った井戸などが残ってます。

桂小五郎・高杉晋作、ともに萩城の城下町の中に家があり、
本当にご近所だったんだなーと改めて感動しました。
高杉晋作が1839年生まれなんで、6歳差なんですよね。



この萩城城下町、街並みそのものが
国の史跡として指定されている立派な文化財でありまして。


当時の城下町の形がそのまま残っており、
古地図のまま歩ける町だそうです。
史跡巡りだとよく「当時にタイムスリップしたみたい」と
いう感想が出てきますが、まさにそれでした。


城下町にはこんなお寺もあります。


高杉晋作が幼少の頃に遊び場としており、
また伊藤博文も小さい頃に預けられていたというお寺です。
(伊藤博文は1841年生まれ、高杉晋作の2歳下になります。)






城下町から外れて、高杉晋作と共に松下村塾の双璧と並び称された
久坂玄瑞の生誕地はこちら。


高校の教科書的には1864年の禁門の変で敗れて
自害したことぐらいでしか出て来ない方なのですが、
松陰先生が長州第一の俊才と認め、
自分の妹を娶らせるほど松陰先生に愛された人物です。
西郷隆盛も明治維新後にその才を認める発言をしていたりします。
1840年生まれ、高杉晋作の1歳下ですね。



高杉・久坂・伊藤など、年齢見てると、
ちょうど高校生ぐらいの時に松下村塾で松陰先生に教わっていて、
そのことが幕末、そして歴史を動かすきっかけになってるのですよね。
坂本龍馬もそうですが、幕末の人物って20代30代で活躍していて、
ほんとに「若いエネルギーが歴史を作った」と感じるのです。
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 19:44 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:松陰神社&松下村塾

……受験シーズンですが、一応学参ブログなのに空気読まずに史跡紹介です。

1月の頭に山口県に行ってきたのですが、
お目当ての1つはもちろん松下村塾&松陰神社ですよ!




……地元では学問の神様とのことなので、
大学受験にもご利益あるかもしれません(と無理やりこじつける)。

吉田松陰と松下村塾、と言えば、
まずは高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山田顕義・山県有朋ら、
幕末&明治維新で活躍した人物を多く送り出したことが
思い出されるかと思います。

※木戸孝允(桂小五郎)は厳密に言うと
 松陰先生が長州藩の藩校の明倫館で教えてた時の生徒なので
 松下村塾生、じゃなかったりするのです。

その松下村塾がこちら。













松下村塾、最初は松陰の叔父・玉木文之進が開いたものでした。
松陰先生がペリー来航時に黒船に乗り込もうとした罪で
実家で謹慎している間に、塾の主宰を受け継いだのです。

松陰先生が実際にこの松下村塾で教えた期間はわずか1年、
(実家で教えていた時期を含めても約2年半)
しかしその後の長州藩、そして日本に与えた影響を考えると、
本当にすごい教育者だったんだなあ……としみじみ思うのです。
そして、その教育が行われていた場所がこの場所だと思うとますます感慨深い。



↑こちらが講義室。



↑内部には塾生たちの写真が飾られてます。

教育者としての松陰先生だと、
前述した「黒船に乗り込もうとした罪」で
最初に牢獄(野山獄)に入れられていた時、
そこで囚人たちからそれぞれの得意分野を教えてもらい、
また自分も囚人たちに対して孟子の講義を行い、
獄内の雰囲気を明るく変えた……
という話に一番凄まじさを感じます。

そしてそれだけの情熱と行動力があったからこそ、
多くの幕末の志士たちに影響を与えたのだと思うのです。

松陰先生を「教育で歴史を動かした人物」と考えると、
教育の重要性に改めて思いを馳せたくなった場所でした。
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 19:16 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:松本城

教科書よりやさしい?史跡紹介:開智学校

こちらの記事で長野県松本市の開智学校に行ってますが、
松本と言えば、もちろん国宝の松本城にも足を運んでいたのでした。





お城で国宝となっているのは、姫路城など4つだけで、
そのうちの1つが松本城になります。
天守閣は国内に現存する最古のもので、
烏城(からすじょう)とも呼ばれる、黒い壁がとても美しいお城です。




いやー、本当に、どの角度から見ても非常に麗しかったです。



こちらは天守閣最上階からの風景。

この日は天候が非常に良かったためか、
はたまた巷の歴史ブーム・城ブームのためか、
天守閣が一時動けないぐらい、ものすごく混んでいました……。
恐るべし城ブーム。


この現存している天守閣を建てたのは
最初は徳川家康の古くからの家臣で、
1584年の小牧・長久手の戦いの後に豊臣秀吉の家臣となった
石川数正という武将です。

※小牧・長久手の戦い
 …羽柴秀吉VS徳川家康・織田信雄(信長の次男)の連合軍の戦い。
  決定的な勝敗はつかないまま講和した。

徳川家康と石川数正については……
某匿名掲示板のまとめなのでクセはありますが、
「やる夫が徳川家康になるようです」が
家康の生涯を描いた物語としてたいへん面白く、
かなりおすすめなのです……!
やる夫のノリに抵抗が無い方にはちょっと見て欲しいお話です。

あんそく やる夫が徳川家康になるようです 三河編 【第1〜3話】

……あ、あんまり史跡紹介してませんねー……。
松本城の美しさをどうぞお楽しみください……!
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 19:37 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:「皇室の文庫 書陵部の名品」展

史跡紹介……とはちょっと違いますが
皇居の東御苑にある三の丸尚蔵館にて開催中の
「皇室の文庫(ふみくら)書陵部の名品」展を見てきました。



詳しくはこちら。
三の丸尚蔵館 - 宮内庁

まるで大河ドラマ『龍馬伝』の放映内容に合わせたかのよーな
薩長同盟裏書(坂本龍馬が木戸孝允に頼まれ、
薩長同盟の6カ条の裏にこれを保証する旨を書いたもの)の公開とあって
きっと休日はすごい混んでるだろーなーと思い、
有給取って平日に行ったのですが(……)、
それでも想像以上の人出でした……。

しかも図録が売り切れ中で10月頭再販予定とか。
何それすごい。

宮内庁書陵部が保管してきた図書や考古品の一般公開とあって、
古代から近代まで、いろいろと興味深い展示となっております。
例えば、

・北畠親房が所有していたという『日本書紀』の写本
 ※北畠親房…南北朝時代、南朝の重臣として活躍。
  南朝の正統性を主張する史書『神皇正統記』を執筆する。

・『玉葉』の写本
 ※『玉葉』…鎌倉時代初期の公家九条兼実の日記。
  平安末期から鎌倉時代初期の重要な史料。

・現存している最古の百人一首の写本

・五箇条の御誓文の原本の控
 ※五箇条の御誓文…1868年に出された明治政府の基本方針。
  史料文として教科書などによく出てくる。

など、日本史の教科書などに掲載されている史料も多く、
日本史担当者としては胸踊る展示でした。
虫食いなどがある史料の補修の技の紹介も興味深かったです。
日本史に興味のある方には大変オススメな展示でした。

10月17日まで、入場無料となっております。
祝日でない月曜と金曜は休館なので注意してくださいね。



この季節は東御苑の中を散歩するのも気持ち良かったですよ♪
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:34 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:開智学校

秋晴れのシルバーウィーク最後の日、
長野県松本市の開智学校などを見てきました。



1876(明治9)年に竣工、
西洋の建築物を見よう見まねで建てた擬洋風建築として
高校日本史でも出てくる建築物です。
和洋折衷なデザインがいかにも文明開化期っぽくて素敵です。

現在は旧開智学校の歴史や明治の教育資料などの博物館になってます。
こんな風に当時の教室・講堂を再現している部屋もあります。



実は学生時代から
「開智学校みたいな著名な小学校の建物が
 何故東京や京都でなく松本に建てられたのか」
疑問に思っていたのですが、
展示を見てその謎がようやく解けました。

松本は江戸時代から寺子屋の普及率が高い地域で、
明治政府が1872(明治5)年、
全ての国民を学ばせようとする学制を出し、
全国に小学校を創設する以前に、
当時の県知事にあたる人物が教育の重要性を訴えて
学校を作っていたということです。
その後、学制発布に伴って、名前を「開智学校」と改めたとか。

学制では地方の経費負担も大きく、
学制反対一揆が起こった地域もあることを考えると、
ますます松本の教育熱の高さを感じます。

また、この開智学校や、松本市の博物館などの展示の解説は
とても丁寧で(「文化財とは何か」から説明するなど)、
昔からの教育熱は現在にも続いているように思いました。


松本市のサイトの文化財紹介ページはこちら。
重要文化財旧開智学校
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:23 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(4)〜終戦編〜

〜前回までのあらすじ〜
1600(慶長5)年9月15日、
徳川家康方(東軍)と石田三成方(西軍)は
ついに関ヶ原で激突!
しかし小早川秀秋の裏切りで西軍は一気に劣勢に!
残った島津軍はどうする!?
そして石田三成の命運は!?


これまでのお話はこちら

教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(1)〜序章〜
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(2)〜開戦編〜
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(3)〜決戦編〜



大谷吉継軍の敗走を受け、西軍はじょじょに壊滅、
石田軍も破れ敗走します。
西軍で最後に残ったのは薩摩の島津義弘の軍隊でした。

その陣跡がこちら。




位置はだいたい石田軍と小西軍の中間ぐらいです。
場所的にはかなりの激戦区のはずなのですが、
島津軍はこれまで積極的に戦いには参加してませんでした。
(もともと西軍に参加するつもりは無かったとか、
 石田三成の島津軍に対する扱いが悪くて戦意が低かったとか)

そして西軍の敗北が決定的になった段階で
島津軍が選んだ策、それが「敵中突破」でした。

島津軍が現在いる関ヶ原の西側から東側へ、
並み居る東軍諸将の真っ只中をわざわざ一気に通過して
戦場から離脱するという……

さすがすごいぜ鬼島津! そこにシビれるあこがれる!

この島津の敵中突破、西軍が敗北する中で、
西軍に味方した島津軍が戦後処理で受ける扱いを
少しでも良くしようとしたため、と説明されてます。
単純に敗走するだけなら西側に逃げればいいのに、
あえて危険を冒すことで自らの実力を示すやり方……
実に鮮やかでカッコいいです。

実際、島津家はその後、様々な交渉の結果、
西軍に味方したにもかかわらず、
領土をそのまま認めてもらえたのでした。
同じく西軍に味方した毛利家が
120万石から37万石になってることを思えば
破格の扱いなのではないかと思うのです。


こうして関ヶ原での戦いは幕を閉じます。
家康が最後に陣を布いて、首実検をした場所がこちら。
関ヶ原歴史民俗資料館からほど近いところにあります。





石田三成自身は関ヶ原から滋賀へと逃げ延びていますが、
結局捕まり、京都の六条河原で斬首となります。

この時に有名な逸話があります。
処刑の前、喉が乾き白湯を欲しがった三成に対し、
守りの者が「柿ならある」柿を渡そうとしたら
三成は「柿は胆の毒だから」と食べませんでした。
「これから処刑される奴が何を言っているんだ」
と笑われたところ、三成は
「大志を抱く人間は最期まで諦めないものだ」と
答えた……というものです。

関ヶ原で敗北した時に自刃するのを良しとせず、
逃げ延びたのはこの信念のためだったのかなあ……
と考えると、石田三成、なかなか熱い男です。
こういう信念の強さが三成人気の理由の一つだと思うのです。

関ヶ原の戦いで一番の激戦となった笹尾山の前には
現在、決戦地の碑が立てられています。




天下分け目の戦いがあったとは思えない、
実にのどかな田園風景となっています。

個人的に、関ヶ原の戦いを面白いと思う理由は、
「もし福島正則が家康に味方しなかったら」
「もし毛利家が積極的に動いていたら」
「もし小早川秀秋が裏切らなかったら」
など、「もし」をいろいろ考えたくなるから、
という点が大きいです。

徳川家康の覇権を決定付けた重要な戦いですが、
東軍の勝利が最初から目に見えていたのか、といえば、
そういうわけではないのですよね。
西軍と東軍、どちらに味方すればいいのか、
様々な人々の思惑が絡み合った結果、
「東軍の勝利」という結末になったわけであって。

もちろん、実際の歴史が変わるわけではありませんが、
もし、誰かがちょっとでも違う選択をしていたら、
歴史が大きく変わったかもしれない。
いや、それでも、大きくは変わらないのかもしれない。

そんなことをいろいろ考えたくなってしまうのが、
天下分け目の関ヶ原の戦いだと思うのです。

……あと、ここで西軍として参加し、敗者となった
長州(毛利家)・薩摩(島津家)が
後に江戸幕府を倒し、
明治新政府の中心となる……というのも
なんだか歴史の因果を感じさせるのですよね……。


関ヶ原の戦いから今年で410年目ということで
イベントも開催されるようなので
興味を持たれた方は是非こちらもご覧ください!

関ケ原合戦410年祭
ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 20:09 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
このページの先頭へ