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教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(2)〜開戦編〜

前回はこちら。
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(1)〜序章〜

なお、今回の旅路では
おすすめモデルコース :関ケ原町 観光ホームページ
こちらの行軍コース(13km/6時間)を参考としております。


さて、関ヶ原の戦いが起こったのは1600(慶長5)年9月15日。
わずか1日で決着がついてしまいますが、
それに至るまでの流れはこんな感じ。

〜ざっくりおさらい〜
1598年の豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が勢力を伸ばした。
1600年、家康は会津の上杉景勝(五大老の一人)が
上洛要求を拒んだことを理由に会津を攻撃を決定、
多くの大名を連れて東国に向かった。

豊臣政権を守ろうとする秀吉子飼いの部下で
五奉行の一人・石田三成はこの機会に家康を排除しようと、
毛利輝元(五大老の一人)を盟主として挙兵する。

三成挙兵の知らせを聞いた家康は軍を引き返し、
かくして1600(慶長5)年9月15日、
家康方(東軍)と三成方(西軍)は
関ヶ原で激突することになった。


五大老は豊臣政権下の有力大名たちで、五奉行は秀吉腹心の部下たちです。

そしてこちらが開戦地の碑。
(実際の位置から多少移動しているそうです。)
古戦場の西側、森と平地の境目ぐらいの位置にあります。



東軍の先鋒は福島正則ですが、
同じく東軍の井伊直政・松平忠吉(家康の息子)らが
抜け駆けして西軍に先に攻め込もうとしたため、
慌てて攻撃を開始したということです。


その福島正則の陣跡はこちら。
関ヶ原駅から南西方面、東軍中でもおそらく一番西よりの地で、
今では比較的民家が並んでいる中にあります。



福島正則も、石田三成と同じく秀吉子飼いの部下の一人です。
織田信長の死後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで
「賤ヶ岳の七本槍」として活躍し、名声を上げた武将です。
……まーなんというか、猪武者のイメージが強い方だと思うのですが……。

戦闘で軍功を上げて活躍する正則たちは
頭脳労働で活躍する官僚タイプの三成と対立しており、
そんな背景があって、正則は西軍ではなく東軍の先鋒となるわけです。

秀吉に可愛がられていた正則が東軍に味方したことで、
多くの大名が「この戦は豊臣家と戦うわけではない」と考え、
東軍に味方したと言われます。
いわば、東軍勝利に非常に貢献した一人ですよね。

ですが結局、その後、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされ、
正則も、同年に成立した武家諸法度違反で
改易(領地没収)されてしまいます。

こういう状況を考えると、もし、関ヶ原の時、
正則が家康に味方しなかったら……と
考えたくなってしまのですよね。
歴史に「もし」を持ち出しても仕方ないのですけども。


さて気を取り直して。
福島正則と先陣を争った
井伊直政と松平忠吉(家康の息子)の陣跡はこちら。
関ヶ原駅から北に少し行った場所、田園地帯の中にあります。

……福島正則陣跡とは結構離れているような……。
すごい抜け駆けっぷりです。



直政は徳川四天王の一人。家康の譜代家臣です。
福島正則と同様、猪突猛進タイプのイメージがありますが
意外と(?)外交能力も高い人物なのですよね。

直政、関ヶ原の戦い後には
三成の領地・佐和山(後の彦根市)を与えられます。
ちなみに、ひこにゃんの元ネタに出てくるお殿様(井伊直孝)の父で、
ひこにゃん - Wikipedia
幕末の大老・井伊直弼は子孫にあたります。


一方の西軍側。
まずは福島正則に攻め込まれた西軍の主力・
宇喜多秀家の陣跡です。現在ではぶっちゃけ森の中です。



宇喜多秀家は備前の大名で五大老の一人です。
秀吉の寵愛をうけた人物で、秀吉の養女をめとっています。
関ヶ原当時28歳で五大老になっているのも
その辺が理由でしょうか(三成でも40歳)。

敗北後は八丈島に流され、1655年、83歳まで生きたりしてます。
もう4代将軍・家綱の時代ですよ。すごい。
……ちなみにイケメンだったらしいです。


同じく西軍、小西行長の陣跡です。
先ほどの開戦地のほど近くにあります。



秀吉に仕えていた堺の豪商・小西隆佐の子という
大名としては珍しい出自の人物です。
キリシタン大名だったり、
文禄の役の講和交渉にあたった人物としても有名です。


そしてこちらが石田三成が陣をかまえた笹尾山。
関ヶ原古戦場の北西で、少々小高い場所となっています。
(山と言うほどきつくはないです。)



登ってみると、ざっと関ヶ原全体が見渡せます。



戦闘は最初、西軍側が有利な状態で展開しました。
そもそも、陣形的にも、
西軍は東軍を包み込む形となっていました。

近代になって、日本陸軍の教官として招かれた
ドイツ帝国の軍人・メッケルはこの関ヶ原の布陣図を見て
西軍の勝利を断言したそうです。

……なのに西軍が負けた理由。
それは主に小早川秀秋の裏切りだったわけですが、
(あと動かなかった西軍大名たち……)
以下次回!

→史跡紹介:関ヶ原(3)〜決戦編〜

……余談ですが関ヶ原関連のゲームだと
DSの「采配のゆくえ」がかなり楽しかったのですが、
想定外に概ね史実準拠の一本道なのが激しく残念で
「秀吉子飼いの部下仲直り・家康フルボッコルート」を
未だに期待して待っております……。

ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:52 * - * trackbacks(0) * - -

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