スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク * - * * - * - * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(3)〜決戦編〜

〜前回までのあらすじ〜
1600(慶長5)年9月15日、
徳川家康方(東軍)と石田三成方(西軍)は
ついに関ヶ原で激突!
後に「この布陣なら西軍の勝ち」と言われるような
有利な状況であったはずの西軍なのに
どーして1日で負けてしまったのか!?


これまでのお話はこちら
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(1)〜序章〜
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(2)〜開戦編〜

さて。
西軍が負けた理由。
それは松尾山に陣を構えていた西軍の小早川秀秋が
東軍に寝返ったことが大きいわけですが。

その小早川秀秋の陣跡のある松尾山への入り口がこちら。




「松尾山登山口駐車場」。
すごく……登山です……。

松尾山は関ヶ原古戦場の南西にあります。
登山口から山頂まで、片道およそ40分程度かかります。
いやー……想像以上の立派な登山でした。
ある程度ちゃんとした荷物と格好でないとキツイと思います。
「関ヶ原に来たんだから小早川の松尾山は必須よね☆」とか
思って登り始めた私が甘かった。スイーツでした。猛反省。

加えて今年の猛暑の熱気でフラフラになりながらも
登り切った山頂はこんな感じ。






三成が陣を構えていた笹尾山といい、
西軍は本当に東軍を囲み込むようにして布陣していたのだなあ、
と改めて実感ます。

加えて、関ヶ原の南東にある南宮山には
西軍の毛利軍が陣取ってました。
(ちょっと離れているので、今回は行ってません)

しかし、毛利軍の前にいた吉川軍が
家康に通じ、戦いを傍観して軍を動かさなかったため、
後ろにいた毛利軍も動けなかった……というわけです。

うーん。いくら地の利を押さえていても
人心をしっかりつかんでないとダメ、ってところなんでしょうか……。

さて、ここでちょっと毛利氏のお話。
安芸の戦国大名・毛利元就は
自分の次男(吉川元春)を吉川氏、
三男(小早川隆景)を小早川氏に養子に出して
毛利氏を支える「毛利両川」と呼ばれる体制を作りました。

関ヶ原の時の西軍の総大将・毛利輝元は
毛利元就の孫(元就の長男の息子)にあたります。
輝元は関ヶ原の戦いの現場にはおらず、大坂城にいました。

上記の吉川軍の大将は吉川元春の息子ですが、
小早川秀秋は小早川隆景の養子です。
秀秋、実はもともと、豊臣秀吉の正妻・北政所の甥で、
秀吉の養子にもなっていた人物です。
……これだけ考えると、すごい豊臣側の人物なんですよね。

秀秋は、東軍に味方すると家康と密約を結びつつも
戦いを傍観していましたが、
痺れを切らした家康が射撃を命じたことによって、
ついに寝返りを決めたとされています。

この寝返りが関ヶ原の勝敗を決定するのですが、
秀秋が合戦当時はわずか19歳であったことを考えると
本人にはものすごい葛藤と苦悩があったのではないかと、
ちょっとだけ同情してしまうのでした……。
実際、関ヶ原の戦いの2年後に21歳で亡くなってますしね……。


さて、寝返って東軍として西軍に攻める小早川軍を
受けたのが西軍の大谷吉継軍です。
陣跡はこんな感じ。




すごく……森の中です……。
松尾山に比べたらまだただの山道なので歩きやすいのですが。

大谷吉継は石田三成の親友であり、
三成が「家康と戦うぞ!」と吉継に持ちかけた時に
「お前は横柄だから無理」と言い切った(意訳)という
なんとも素敵な逸話の持ち主です。

また、病魔に侵されており、
崩れた顔を布で覆い目も見えない状態で、
それでも三成の決意に打たれ、西軍に味方したわけです。

……生き様がすごい男前ですよね……。

大谷吉継の陣跡は関ヶ原古戦場の西の森の中にあります。
西軍では一番松尾山に近い位置です。
最初から小早川秀秋の裏切りに備えて
この位置に布陣したとされます……。

そんなわけで小早川軍の攻撃にも大谷軍は対応しますが、
小早川の裏切りになびいた諸将や東軍の攻撃もあり、
壮絶な戦いの末、大谷吉継は自刃します。
そのお墓がこちら。




このお墓、東軍側の藤堂家が建てたというのも素敵なお話です。

関ヶ原の戦いに限らず大谷吉継関連の話は
ここで私ごときが語るまでも無いぐらい
有名かつカッコいい話題が多いと思うのです……。
ここでは割愛しますが、
興味を持った方は是非調べてみて欲しいところです。

大谷軍の敗走を受け、西軍はじょじょに壊滅、
石田軍も破れ敗走します……。

そこで残ったのは薩摩の島津軍だったわけですが
ここで彼らが選んだ決死の選択とは!(って有名ですが)
そんなわけでまだ次回に続く!


教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(4)〜終戦編〜に続く!


……3回ぐらいで終わらせるつもりで全然終わらなかった……
関ヶ原関連だと司馬遼太郎の『関ヶ原』が熱いですが
こっちもオススメですよー。

ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:45 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(2)〜開戦編〜

前回はこちら。
教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(1)〜序章〜

なお、今回の旅路では
おすすめモデルコース :関ケ原町 観光ホームページ
こちらの行軍コース(13km/6時間)を参考としております。


さて、関ヶ原の戦いが起こったのは1600(慶長5)年9月15日。
わずか1日で決着がついてしまいますが、
それに至るまでの流れはこんな感じ。

〜ざっくりおさらい〜
1598年の豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が勢力を伸ばした。
1600年、家康は会津の上杉景勝(五大老の一人)が
上洛要求を拒んだことを理由に会津を攻撃を決定、
多くの大名を連れて東国に向かった。

豊臣政権を守ろうとする秀吉子飼いの部下で
五奉行の一人・石田三成はこの機会に家康を排除しようと、
毛利輝元(五大老の一人)を盟主として挙兵する。

三成挙兵の知らせを聞いた家康は軍を引き返し、
かくして1600(慶長5)年9月15日、
家康方(東軍)と三成方(西軍)は
関ヶ原で激突することになった。


五大老は豊臣政権下の有力大名たちで、五奉行は秀吉腹心の部下たちです。

そしてこちらが開戦地の碑。
(実際の位置から多少移動しているそうです。)
古戦場の西側、森と平地の境目ぐらいの位置にあります。



東軍の先鋒は福島正則ですが、
同じく東軍の井伊直政・松平忠吉(家康の息子)らが
抜け駆けして西軍に先に攻め込もうとしたため、
慌てて攻撃を開始したということです。


その福島正則の陣跡はこちら。
関ヶ原駅から南西方面、東軍中でもおそらく一番西よりの地で、
今では比較的民家が並んでいる中にあります。



福島正則も、石田三成と同じく秀吉子飼いの部下の一人です。
織田信長の死後、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで
「賤ヶ岳の七本槍」として活躍し、名声を上げた武将です。
……まーなんというか、猪武者のイメージが強い方だと思うのですが……。

戦闘で軍功を上げて活躍する正則たちは
頭脳労働で活躍する官僚タイプの三成と対立しており、
そんな背景があって、正則は西軍ではなく東軍の先鋒となるわけです。

秀吉に可愛がられていた正則が東軍に味方したことで、
多くの大名が「この戦は豊臣家と戦うわけではない」と考え、
東軍に味方したと言われます。
いわば、東軍勝利に非常に貢献した一人ですよね。

ですが結局、その後、1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅ぼされ、
正則も、同年に成立した武家諸法度違反で
改易(領地没収)されてしまいます。

こういう状況を考えると、もし、関ヶ原の時、
正則が家康に味方しなかったら……と
考えたくなってしまのですよね。
歴史に「もし」を持ち出しても仕方ないのですけども。


さて気を取り直して。
福島正則と先陣を争った
井伊直政と松平忠吉(家康の息子)の陣跡はこちら。
関ヶ原駅から北に少し行った場所、田園地帯の中にあります。

……福島正則陣跡とは結構離れているような……。
すごい抜け駆けっぷりです。



直政は徳川四天王の一人。家康の譜代家臣です。
福島正則と同様、猪突猛進タイプのイメージがありますが
意外と(?)外交能力も高い人物なのですよね。

直政、関ヶ原の戦い後には
三成の領地・佐和山(後の彦根市)を与えられます。
ちなみに、ひこにゃんの元ネタに出てくるお殿様(井伊直孝)の父で、
ひこにゃん - Wikipedia
幕末の大老・井伊直弼は子孫にあたります。


一方の西軍側。
まずは福島正則に攻め込まれた西軍の主力・
宇喜多秀家の陣跡です。現在ではぶっちゃけ森の中です。



宇喜多秀家は備前の大名で五大老の一人です。
秀吉の寵愛をうけた人物で、秀吉の養女をめとっています。
関ヶ原当時28歳で五大老になっているのも
その辺が理由でしょうか(三成でも40歳)。

敗北後は八丈島に流され、1655年、83歳まで生きたりしてます。
もう4代将軍・家綱の時代ですよ。すごい。
……ちなみにイケメンだったらしいです。


同じく西軍、小西行長の陣跡です。
先ほどの開戦地のほど近くにあります。



秀吉に仕えていた堺の豪商・小西隆佐の子という
大名としては珍しい出自の人物です。
キリシタン大名だったり、
文禄の役の講和交渉にあたった人物としても有名です。


そしてこちらが石田三成が陣をかまえた笹尾山。
関ヶ原古戦場の北西で、少々小高い場所となっています。
(山と言うほどきつくはないです。)



登ってみると、ざっと関ヶ原全体が見渡せます。



戦闘は最初、西軍側が有利な状態で展開しました。
そもそも、陣形的にも、
西軍は東軍を包み込む形となっていました。

近代になって、日本陸軍の教官として招かれた
ドイツ帝国の軍人・メッケルはこの関ヶ原の布陣図を見て
西軍の勝利を断言したそうです。

……なのに西軍が負けた理由。
それは主に小早川秀秋の裏切りだったわけですが、
(あと動かなかった西軍大名たち……)
以下次回!

→史跡紹介:関ヶ原(3)〜決戦編〜

……余談ですが関ヶ原関連のゲームだと
DSの「采配のゆくえ」がかなり楽しかったのですが、
想定外に概ね史実準拠の一本道なのが激しく残念で
「秀吉子飼いの部下仲直り・家康フルボッコルート」を
未だに期待して待っております……。

ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 18:52 * - * trackbacks(0) * - -

教科書よりやさしい?史跡紹介:関ヶ原(1)〜序章〜

編集担当、お盆休みを利用して小旅行してきました。

場所は現在、戦国武将ブームで熱い(ような気がする)



関ヶ原です。

1600年、豊臣秀吉亡き後の覇権を狙う徳川家康(東軍)と、
豊臣政権の存続を願う石田三成(西軍)が争った、
かの有名な「天下分け目の戦い」の地です。


大きな地図で見る

関ヶ原の戦い、高校教科書では数行で終わってしまう内容ですが、
(小早川秀秋の裏切りなんかも載ってないみたいですね……)
戦い前後の武将たちのやり取りなどは、
どこを切り取ってもたいへんドラマになるものだと思うのです。
そりゃあ小説でもゲームでもいくらでも物語が作れるよこれ。

現在の我々は、戦いの結果、
「徳川家康が勝って1603年に江戸幕府を開いた」ことを知っていますが
当時の武将たちからすれば、どっちが勝つか分からない状況で、
だからこそ西軍と東軍、どちらに味方するか、決断を迫られた
武将たちの人間ドラマが熱い、と思うのです。

その辺もちょこっと交えつつ、数回に分けて史跡紹介をお送りしようかと。




JR東海道本線の関ヶ原駅を降りると、
最初から上のような看板や地図があって
かなり歴史好きのテンションが上がります。


さて、関ヶ原駅前にある観光案内所で
ウォーキングマップ・ガイドブックなどを入手し、
そして観光案内所で勧められるままに
まずは関ヶ原歴史民俗資料館へ。



関ヶ原の戦いの陣形模型などで合戦がどう推移したかを確認し、
『関ヶ原合戦図屏風』や甲冑・火縄銃を見たりすることが出来ます。



もちろん観光地には付き物の顔出し看板もあります。



続いて、開戦から順を追って紹介……する前に、
いくつか「関ヶ原いいなあ」と思った点を。



まずは観光中一番「すごい!」と思ったのが
関ヶ原で至る所に普通にあるこの道案内!
本当に古戦場なんだな……、と思いを馳せるとともに、
これのおかげでほとんど迷うことなく辿りつけました。
本当にありがたかったです。



そして、駅前の道や史跡、歴史民俗資料館に立ち並ぶのぼりや、



タンク?に描かれた武将たちの絵など、
史跡として関ヶ原を活かして行こうという意志が感じられて
非常に楽しめました。

華やかな建築物や遺跡があるわけでは無いのですが、
関ヶ原の戦いに興味がある方にはオススメです。
今は本当にのどかな田園と山々が広がってるんですけどね……。




→史跡紹介:関ヶ原(2)〜開戦編〜 はこちら!

ありんこ(編集担当) * 史跡紹介 * 20:56 * - * trackbacks(0) * - -
このページの先頭へ